偉人列伝第二章
大陸の英雄伝!
初代皇帝 始皇帝
時代は紀元前の話になるが始皇帝の話は彼がヒーローでありまた彼を取り巻く存在の一人一人が偉人であり英雄で間違いない。
(紀元前259-210) 中国、秦の第一世皇帝。第三一代秦王。名は政。紀元前221年戦国の六国を滅ぼし、初めて中国全土を統一、自ら皇帝と称した。郡県制を施行して中央集権化を図り、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)による思想統制、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の増築などを行なった。掻い摘んで説明するとこのようになるが、その生い立ちから常に恵まれた存在ではない姿が浮かんでくる。あれだけ広大な領土を統一し支配した。その人物を説明しよう。
始皇帝王朝
紀元前247年に即位した政は、李斯を丞相として国力増強に努めた。紀元前223年に秦の最大の敵であった楚を滅亡させ、紀元前221年に中国を統一し、自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。
始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。万里の長城の建設は主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。だがこの時代には群雄割拠する時代であり、強大な力と犯しがたい法律が必要であった。それなりにその地方に残っている習慣などではなく、絶対的な法で総てを押し切る力、それこそが権力の象徴であり、始皇帝の始皇帝たる所以である。
始皇帝が滅ぼした国々にも英雄が存在した、だが始皇帝にはかなわなかった。卓越した戦いのスタイルと両脇を支えた天才の宰相が存在した。国家の統制は取れ軍事訓練も怠らない、そこに力の差が生まれる。そしてそこに勝敗が生まれるのである。結果、始皇帝が存在したのである。
時の力と陳勝王
恵まれた才覚と絶対的な権力に包まれた始皇帝でも、その手にすることができなっかたものは、永遠の命である。中国大陸を平定後に始皇帝は様々な構築物を創った。有名なものには万里の長城がある、北限の蛮族の侵略から国を守るために造らせたらしいが、あの巨大な城壁は宇宙から見える唯一の建造物らしい。そんな隆盛を誇っていた始皇帝にも寿命が来た。世界中を探し回ったが不老不死の薬は手に入れることはできなかった。始皇帝が死を迎えると、それまで虐げられていたものたちがいろんな方法で力を示そうとするが、その中にあってこの陳勝は時の力を体現した人物である。
紀元前210年に始皇帝が崩御すると、その末子である胡亥が兄の扶蘇を謀殺して即位した。
その元年となる紀元前209年の7月、陳勝と呉広は辺境守備のために徴発された農民兵900名の引率の補佐を任され、漁陽(現在の北京市北部の密雲県)へと向かっていた。しかし、その道中、大沢郷(現在の安徽省宿州市の東南部)にさしかかったところで大雨に遭って道が水没し、期日までに漁陽へとたどり着く事が不可能になる。秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である。期日までに着けない、そう判断した時点で陳勝と呉広は反乱を決意し、引率の役人を殺そうと画策する。策は成功し自分たちが引率していた兵隊の親玉になり、死から生を得たように見えたが、人間にはその才能の限界がある。嘘で創った皇帝の位置はすぐに崩れ始めた。扶蘇、や項燕を名乗ってみても人間が違うのである。陳勝は王には成った、だがそれだけであった、この後にやってくる時代の扉を開いたことは認めるが、それで終わりである。やがて来る項羽と劉邦の時代へとは自分自身では進めないのである。それだけ死んだ始皇帝がすごい偉人なのである。
戦乱を制して英雄となった者達は世界中に沢山存在するが、みな王権神授説を唱える。やはり皆不安なのである。自分の力の限界は自分が一番知っているのだから、古代ヨーロッパの王侯たちは殆んどがそれであり何の根拠も無い力を信じていたのである。その中からアレキサンダー大王について説明したいと思う。
第3章西洋の王侯、−大王と称された唯一の存在ー