第6章
   世界で一番高潔な女性  慈悲と博愛の人  マザーテレサ
     
    マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュはオスマン帝国領のコソボ、ウシュクブ(現代のマケドニア共和国のスコピエ)でアルバニア人の家庭に生まれた。父は実業家で、彼女は三人の子供たちの末っ子であった。両親はマケドニア地方に住むアルバニア人のカトリックであったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ(現コルカタ)へと赴くことになった。ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズからとっている。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。
1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教え、1944年には校長に任命されていた。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行い、簡単には彼女の活動に対する認可を与えなかったが、テレサはあくまで自分に与えられた使命に基づいて行動しようとした1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。
 テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになった。
  1950年、カルカッタで協力者たちと共に精力的な活動を行っていたテレサはバチカンから修道会設立の許可を得た。これが「神の愛の宣教者会」である。テレサによれば同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされない人のために働く」ことであるとされた。インド政府の協力でヒンドゥー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピス施設を開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していくが、ケアする相手の状態や宗派を問わないマザー・テレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラであった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる
1971年、教皇パウロ6世は自らが制定した勲章「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者としてマザー・テレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、シュバイツァー国際賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ上院議会金賞アメリカ合衆国名誉市民権(1996年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けた。
こういった賞の中でもっとも有名なものはもちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。マザー・テレサは受賞者のための晩餐会の出席は断ったが、賞金6000ドルはカルカッタの貧しい人々のためにうけとった。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」といったと言う。そのときのインタビューの中で「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたマザー・テレサの答えはシンプルなものであった、「家に帰って家族を大切にしてあげてください」。
 1982年にはマザー・テレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。
 コルカタの施設で死にかけている子どもたちのため、ローマから医薬品を運んだ際には、乗り換えのインディラ・ガンディー国際空港で多くの空港関係者が搭乗券の手配や荷物の搬送で、果ては国内線のパイロットまでが管制塔の警告を無視して自機を国際線スポットへ移動させ、協力したという。このような逸話はいくつもあり、マザー自身は「ミラクル」と呼んでいた。